明治時代に講道館を創設し、世界中に柔道を普及させ、柔道の父と呼ばれた嘉納治五郎(かのうじごろう)さん。
現在、国際柔道連盟(IJF)に加盟している国と地域は200を越え、嘉納治五郎の誕生日はIJFにより国際柔道デーと定められています。
そんな、嘉納治五郎さんの気になる身長や心に残る名言・家系図なども含め、まとめました。
嘉納治五郎の身長は?
嘉納治五郎の身長は158㎝程度だったと言われています。
小柄な体格だったのですね~!
このため、同級生や先輩からいじめを受けたこともあったそうです。
身体が小さくても大きな相手を倒すことができる柔術の習得をしていったのは、この事が大きな理由であったと言われています。
嘉納治五郎のプロフィール、経歴は?
生まれ : 兵庫県 神戸市
学歴 : 東京大学
格闘技 : 柔道、 柔術
イジメの対象になっていたことで、「強くなりたい」と思い、柔術を習うことによって強くなることを目指したそうです。
嘉納治五郎さんは他の格闘技なども研究し、相撲の技をかけるタイミングや脚の使い方や日本に伝っていなかったレスリングも勉強したそうです。
研究するうちに精神状態も落ち着いたものとなり、柔術は人を高める効果もあると気付いたそうです。
さらに相手と高めあうために、柔術の危険な部分を排除し、合理的水準の高い、足技や腰技を中心に、稽古も受身から入るという新たな柔術を編み出し、これを「柔らの道」柔道と名づけて、永昌寺で道場を開きました。
後に講道館となります。
講道館には最初は4・5人の弟子しかいませんでしたが、帯の色を変えて階級をつけたり、警察官との交流などで、警察の必須習得科目となったり、次第に人々の間に浸透していきました。
西郷四郎は姿三四郎のモデルになり、夏目漱石や、五島慶太、廣田弘毅なども講道館に学んだそうです。
1964年、東京オリンピックの招致に奔走しました。
1903年、治五郎の弟子の山下がアメリカに渡り、ワシントンに道場を作った。
そしてヨーロッパにも柔道は広まり、1902年、クーベルタンからの日本も五輪に参加して欲しいとの親書がフランスから嘉納治五郎さんに手渡されたそうですが、日本は満州事変後、国際連盟を脱退する事態になっていたのです。
そこで、嘉納治五郎さんはオリンピックの招致を決意し、3年の間に12カ国を回り、日本開催をアピールしました。
次回開催を決めるIOC委員会で、演説します。
この演説は名演説と言われ、投票の結果次回は「東京」と決ったそうです。
しかし、バンクーバーから帰国するために乗船した氷川丸のなかで肺炎にかかり、意識不明の重体となりそのまま息を引き取りました。
その後、日本は日中戦争の泥沼に突入し、五輪開催は夢と消え、東京で開催されるのは25年後となったのです。
嘉納治五郎の名言
嘉納治五郎さんは弟子や学生、生徒に対して数多くの言葉を残しています。
その中から心に響く言葉を選んでみました。
嘉納治五郎の家系図
祖父:治作(酒造・廻船にて名をはせた)
父:嘉納治朗作
母:定子
長兄:寅太郎(久三郎)。農場経営
次兄:亀松(謙作)
長姉:柳子。南郷茂光に嫁ぐ
次姉:勝子。柳楢悦に嫁ぐ
妻:須磨子(外交官で漢学者の竹添進一郎の娘)
長男:竹添履信(洋画家)
次男:嘉納履正(全日本柔道連盟初代会長)
長女:哲学博士、綿貫哲雄に嫁ぐ
甥
・南郷次郎(海軍少将)
・九里四郎(加賀藩前田家家老・九里家養子に)
・柳宗悦(民藝運動を起こした思想家、美学者)
孫
・嘉納行光(講道館館長、全日本柔道連盟会長)
まとめ
柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた嘉納治五郎(かのうじごろう)さん。
「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる理由が分かりました。
オリンピックに懸けた情熱も知れて、来年開催される東京オリンピックが益々楽しみになりました。
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